小坂さんは、近所でも評判の優しくて穏やかなおじいちゃんだった。
5年前に妻を亡くして一人暮らしになってからも、家にはいつも誰かが訪ねてきた。 もう手遅れの癌だとわかって入院してからも、友人だというおじいちゃんやおばあちゃんがいつも面会に来ていた。2人の息子の姿はあまり見なかったが、時折孫を連れて来ていた。 「やあ。ありがと、ありがと。」 小坂さんはいつもそう言ってにこにこ笑っていた。 遠方に住む息子たちに代わって、洗濯や買い物などの身の回りの世話を全部引き受けてくれていたのは、隣人の田中さんだった。 「よくしてくれているから。」と毎日毎日通ってきてくれていた。 息子たちも、小さい頃から良く知っている田中さんに、「すべて任せている。」と言っていた。 二人でいる姿は、まるで長年連れ添った夫婦の様だった。 田中さんもまた、夫を亡くしていた。 緩和ケアに重きを置かれていた小坂さんも段々と痛みは増していき、痛み止めは麻薬に代わり、量も増えていった。ぼーっと過ごす日も多くなっていた。 その時も、田中さんは面会に来ていた。小坂さんの病室から、突然大きな声が聞こえた。その日の担当看護師の声だった。 「手を貸してください!」 只ならぬ声に、何人かの看護師が駆け付けた。小坂さんが、看護師に掴みかかっていた。見たことも無いような形相だった。爪を立て、明らかに相手を傷つけとうとしていた。どちらにも危険がおよぶ。看護師に噛みつこうとするところで、とっさに止めに入った。 「ガリッ」 っと鈍い音がした。 皆に抑えられ、身動きが取れなくなったところで、小坂さんはパタリと気を失って倒れた。身体には問題はなかったが、その後何時間も眠り続けた。 一部始終を見ていた田中さんは震えていた。震えが止まらず座り込んでいる傍らに一緒に座った。 田中さんが話始めた。 「ここ2・3年、少し様子がおかしかった・・・」 いつもは、とても穏やかでにこにこしているのに、田中さんが1日でも家に行かなかったり、他の人と仲良くしているのを見ると、その晩、田中さんの家の周りをぐるぐると歩くのだそうだ。それは夜中まで続くこともあった。そして、昼間はまた元の穏やかな小坂さんだった。 そんなことが続き、怖くなった田中さんは、毎日小坂さんの家に通っていたのだそうだ。 「入院してからも、またそんなことがあるんじゃないかと思ったら怖くて毎日来ていた。」そう田中さんは言った。 二人を見ていた誰もが、まったく思いもしないことだった。なんとも言えずにいた。 ふと左手を見ると、薬指にくっきりと歯型が残っていた。 噛まれたのは、私の指だった。 看護師達は後悔の念でいっぱいだった。 検温に行くと決まって、「もう行っちゃうの? もう少し話していってよ。」 そう言ってとびきりの笑顔を見せた。 そう出来るときはそうしたが、満足に話を出来ないことの方がほとんどだった。 ‘ 怖い さみしい ’ という信号をちゃんと発信していた。キャッチ出来ていたら、あんな酷いことにはならなかった。 いつも人に囲まれていた小坂さんも面会時間を終えると、一人だった。 あの時、受け持ち看護師は、時間ごとにのむ痛み止めを渡しに行った。 「いらない。」と言う小坂さんに、「のまないと痛くなっちゃうから。」と勧めた。 表情が一瞬にして変わり、「もうどうなってもいいんだ!」と急に暴れだしたのだそうだ。 田中さんが、「明日は面会に来られない。」と伝えた後だった。 目を覚ましてからも、何度も突然気を失うことがあった。検査もしたが、身体の様子に変わりは無かった。 精神科医師が診察をした。 「不安や恐怖感から、自分でもコントロールがつかなくなって、パタリと閉ざしてしまっているのだと思う。 気を失っているように見えるときも、普段と同じように話しかけてみて下さい。」 気を失う時以外の小坂さんは、いつもと変わらず穏やかに笑っていた。 ただ、あの時のことはうっすらと憶えているようで、 「誰かの手を噛んじゃったんだよ。よくわからなくなって、本当に申し訳ないことをした。」そう言って、事あるごとに何度も何度もあやまっていた。 「そんなことしていないよ。痛くて怖かったから、そんな夢を見ちゃったんだよ。」と答えた。 それから段々、気を失うようなことは無くなっていった。 そんなことがあってからも、田中さんは毎日やってきた。 もう、小坂さんが家の周りを歩くことはないとわかってからも。 最期はとても穏やかだった。 いつもの笑顔で旅立って行った。 田中さんにしっかり手を握られて。 二人の間には、恐怖心だけの結びつきだけではない何かがしっかりあった。 5年も前のことだけれど、私の右手の薬指は今でも時折、曲げると‘ポキッ’っと音をたてる。 さみしがり屋の小坂さんが、「忘れないで。」と言っているようだ。 #
by momo-hospital
| 2009-09-25 03:32
| 外科病棟
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